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Lovers Concerto  Prologue


「あ、この曲……」
車のラジオから聞こえてきたのは、サラ・ヴォーンの『ラヴァーズ・コンチェルト』。
この歌の原曲は、弦楽でもよく奏される、バッハのメヌエットだと言われている。私が初めてその曲を聞いたのは、確か父が手ほどきをするバイオリンのレッスンの時だった。

私は練習室から流れてくる、バイオリンの調べを子守歌にして育った。
そのせいか、今もこのエチュードを聞いていると、薄れかけた記憶が突然甦ってくることがある。

子供の頃、母に隠れてこっそりと忍び込んだ練習室で、父の手から仄かに香った松脂の匂い。いつも弦を抑える父の指先は固く、長くてほっそりとした指のそこだけごつごつした感触があった。
「パパ、あれがいいの」
そんな時、私がおねだりするのは決まってあの曲。
「詩音はいつも同じ曲をリクエストするんだね」
そう言いながらも、父がいつも即興で弾いてくれたのは、バッハのメヌエット。
尖りがちな高音を、柔らかな響きで奏でる父親の弦。
それに合わせて体でリズムを取る私を見て、父は穏やかに微笑んでいた。
幸せだった頃の自分を包んでいた温かな音色は、いつからか姉が紡ぐ優しい音に変わっていった。

「ラヴァーズ・コンチェルト……か」

それはまだ、私が幼かった頃の、過ぎ去りし思い出の調べ。
そして、今もこの歌が思い出させる父親のバイオリンの奏では、何の前触れもなく、ある日突然途絶えた。
「パパ……」
今はもう、写真の中でしか会うことの叶わない父親の、穏やかな微笑みを見ながら私は思う。

もしもあの時、あの音さえ失わなければ……
私はいつまでも何も知らない無邪気な子供のままでいられたのかもしれない、と。




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